のゑ女について

のゑは旧丹生郡持明寺村(現鯖江市吉川町)出身の人で、第二十世善雲上人の息女の乳母として仕えていました。

文化5(1808)年11月17日(新暦 12月21日)、雪が積もった朝、境内で二人の姫と遊んでいたところ、傷を負った大きな猪が境内に侵入し、突如襲いかかってきました。のゑは二人の姫をつつじの大株の下に押し込め、自らは身を挺してこれを遮り「汝我を殺すとも姫に傷くることなかれ」と叫び、渾身の力で押し留めたのです。左手で耳を、右手は猪の口の中に手を入れ舌を掴み、必死の形相で格闘する姿が絵に残されています。里の人が駆けつけるに及び大猪は逃げ去りました。のゑは6箇所に傷を受け、瀕死の状態でした。ときに都和姫6歳と三保姫4歳。のゑは42歳。大猪はほどなく近隣の農家で捕獲され、その牙は当山に保存されています。

忠義の行いに対して当時の福井藩第13代藩主松平治好公より褒賞ならびに「猪子」姓を賜りました。のゑは傷も回復し、その後三代にわたりご門主にお仕えし、功績により終身扶持を受けたそうです。晩年は念仏三昧に入り、弘化3(1846)年3月2日に亡くなりました。80歳でした。清心尼といいます。小さなお墓が墓地の西隅に建っています。

のゑに命を救われた都和姫は後に福井藩の家老狛木工の妻となり、三保姫は仏光寺の院家昌蔵院に入寺された府中藩主の弟君に嫁がれましたが、善雲上人の男子は悉く早世され、止むなく家族で毫摂寺に入寺されたのです。21世善静上人のお裏方ということになります。

境内には昭和9年に顕彰碑が建てられ、現在でものゑ女遺跡保存会の主催により毎年11月下旬には近隣の子どもたちを集めて顕彰法要が営まれています。
  • 真宗出雲路派 のえ女
「おもへらく釋清心もゐのししもいまはほとけの御弟子ならまし」(与謝野晶子)

戦前は「忠義」ということで修身の教科 書にも取り上げられた「烈女のゑ」の逸話ですが、与謝野晶子の見方は違っていました。乳母という使命を担ったのゑと、雪が降って食べ物がなく生きるために 里に下りてきた大猪。猪に子がいたかも知れません。ここには善も悪もなく、命と命のまことに悲しい出会いがあるだけです。晶子はそのことに思いを致して、 「のゑも猪も、いまはお浄土で仏さまのお弟子になっているでしょうね」と詠っているのでしょう。

なお、のゑの末裔は今も、誇りもって「猪子」姓を名乗り、鯖江市で飲食業(沖縄ダイニング猪吉)を営んでおられます。一度、たずねてみてはいかがでしょうか。